春日神社
 4月16日土曜日、ちょっと風が強いが、天気は良い。暑くもなく、まち歩きに最適な日だ。始めの予定の3月26日が雨で中止になって、今日も雨なら、私の「日ごろの行い」が問題となる所であった。
 阪急電鉄上新庄駅西口は駅の裏口といっても良い。駅を1歩出ると小型車がやっと通れるくらいの路地しかなく、目の前が上新庄小学校の塀である。いきなり上新庄の旧集落の端に入ってしまうのである。表口(東口)のにぎやかさと比べるとまさに「裏口」と呼ぶしかない。なにしろ美容室と、軽食喫茶の店の2軒しか店がないのである。
 さて、小学校の塀沿いに歩いて春日神社に向かうと、狭い道の両側に5・60年前の昭和の世界が広がる。四つ角で今日参加されるYさんに出会う。「東淀川魅力発見プロジェクト」の仲間で、360度カメラで今回のまち歩きを撮るそうだ。どんな動画になるか興味津々といったところ。【註1】
 お宮に着いてしばらくすると、Tさんが現れる。こちらに来ないで、向かいの空家をしきりに写真にとっている。それからこちらに来られて、あいさつもそこそこに、民家の軒裏の銅板張りやらスクラッチタイルの事を聞いてこられる。「なんのこっちゃ?」「今日のまち歩きとどう関係あるんかいな?」と思いながら話していると、福島の町家建築のことらしい。それで、あの空家にひっかんだなと気がついた。Tさんは市民講座や「大阪あそぼ」のガイドをされている「大阪民俗学研究会」の代表、特に福島区のことを調べておられる人。以後はT先生と呼びます。
 あとはKさんだけだ。今日のまち歩きは私を含めて4名だけ、さみしい限り。Kさんに「今どこ?」とショートメール。「上新庄駅降りました」とすぐに返信あり。「5分もすれば来るな」と思っていたが、来ない。時間になったので再度ショートメールしようかと思っていたら、「道に迷ったみたいです」とショートメールの着信あり。電話をかけると、ジョーシン電気が見えるという。内環状線の広い通りを歩いていたらしい。
「駅の方に戻って、途中から南側の集落に入ってきたら鎮守の森が見えるから、神社で待っといて。我々はここらを歩いているから」とする。お宮から東へ、T字路まで行き、まち歩きをスタートさせる。
 「この道を向こうに行くと亀岡街道にぶつかります。そこから江口街道が始まります」と言ってニヤリ。「Kさんの言うジョーシンのある所がそこなんだ」と心中でつぶやく。
さて、来た道を振り返る。「左の家が上新庄村の庄屋さん宅。長屋門だけが残っていますが、ここが撮影スポット」と説明すると、「やっぱり」と誰かが答えた。
上新庄
 少し歩いて、お宮さんの角に来る。「まっすぐ行くと江口、右の道が中島街道、三番(さんば)村や豊里村、平田の渡しに行きます。この道は大正3年の一時期、川端康成が、旧制茨木中学に通うために吹田駅まで歩いた道です」(第5話「川端康成と豊里の河川敷」参照)
と説明していたら、お宮さんからKさんが現れる。Kさんは以前淀川区のまち歩きでお世話になり、今日はそのお返しです。
春日神社
 お宮さんには正面の鳥居から入りました。広い境内に楠の大木がまばらに5,6本。明るくて雑草1本無いすがすがしいお宮です。今日は境内の一角にある会館で落語会があるとの事で、パラパラと人が集まってきています。
 このお宮は昔、榊の大木を神木として崇めたことから榊神社を創建したそうですが、天正6年(1578)奈良の春日大社から分霊を受け、春日神社となったそうです。天正6年ごろは石山本願寺と織田信長の「石山合戦」の最中で、なぜ春日神社の傘下に入ったのか気になります。【註2】
榊神社
 榊神社は稲荷神社と一緒に、摂社として祀られています。古そうな灯篭が残っています。もう一つ、これは石仏なのだと思いますが、形の崩れた狛犬と思われる石像(まるでカエルのようです)が守っています。これも古さを感じさせるものです。
春日神社石仏
上新庄空家
 次に、T先生が気に留めた空家に行きました。なるほど門柱はスクラッチタイル張り、頂点に大理石の半球が乗っかっています。塀は当時の民家としては珍しいセメントモルタル仕上、右横の建物の窓も洋風で応接間のようです。多分、昭和初めの建物なんでしょう、「昭和モダニズム建築」の片鱗が残っています。空家でなければ、いい感じの乙な建物です。
 阪急線の高架下まで来ると、吹田方向に斜めの道があります。この道の反対側、高架の向こうに路地が延びています。これは最初の中島用水路の跡で、大正6年の大塚切れの洪水後の復旧工事で、中島用水路が瑞光寺前から下新庄・引江まで直線化されますが、神崎川の旧堤防、つまり御旅町までは昭和10年頃まで残されていました。
上中島区画整理図
 阪急の高架下を抜けると細い路地が30mほどあります。街道といっても3等補助里道ですので、道幅の規程はありません。
それを抜けると内環状線、その向う正面に稲荷商店街のボロボロのアーケードがあります、これも昔の江口街道です。内環状線は阪急線の前後100mくらいは3車線になっています。大大阪時代の都市計画で車道の方を立体交差にする計画だったためです。ところが、この踏切で、昭和34(1959)年1月3日、大阪市営バスと急行電車の踏切事故が発生しました。バスの乗員乗客7人が死亡し、電車の乗客16人が負傷するという大惨事です。これによって立体交差化の機運が出てきて、昭和50年(1975)、上新庄駅とも立体交差化されました。
島頭踏切
 この時、上新庄駅が北側に移動、内環状線の橋上駅となり北改札口が設けられると、人の流れが一変。今まで小松方面からは稲荷商店街を通って駅に行っていたのが、商店街を通らなくなります。1970年代はスーパーに押されて市場や商店街は斜陽になっていたのに追い打ちとなります。かくて稲荷商店街はほぼすべての店のシャッターが降り、アーケードもボロボロになり、かえって人が避けるような商店街となりました。ただし、入ってすぐのところに、喫茶店があります。これは私が若いころからありまして、「昭和レトロ」の内装が残っています。今の店主は引き継いで10年ほどだそうで、モーニングがトースト・ゆで卵にヨーグルトまで付いて400円で提供しています、しかもお昼12時まで。
稲荷商店街1
稲荷商店街2
 商店街の中ほどに商店街の名前の由来になったお稲荷さんがありますが、本当にさみしい通りです。ここの北側に神社があって、明治42年に大隅神社に統合されますが、やはり春日神社だったそうですが、この稲荷神社との関係はわかりません。
 ここを抜けると、道がぐいちになって小松商店街が始まります。この商店街も江口街道です。ただし、昭和4年からの区画整理【註3】で道幅が広くなっています。そのせいなのかアーケードがありません。
小松商店街
 歩きながら、「この商店街はこの道路ともう一つ南側の道路に商店が並び、2つの市場があった」と説明していたら、ふとん屋のオッチャン――表にイスを出して日向ぼっこをしていた――が、「いや、3つや。小松市場、小松中央市場、小松南市場の3つや」と教えてくれる。「夜店があって、週1回やったかな?」と聞くと、「1の日や、1日、11日、21日や」と教えてくれた。今みたいな縁日の夜店ではなく、古本屋や荒物屋などが出ていた本格的な露店市で、カーバイドの灯りがくさかったと、しばらく雑談する。
 ふとん屋のオッチャンとわかれて進むと、路地の入口に小さな八百屋がある。聞くとここが小松市場だそうだ。隣との路地にずらっと向うの道路まで商店が並んでいたが、今はこの表角の店しか残っていいない。建物は比較的新しく、聞かないと市場だったとはわからなかった。
 信号を越えてまっすぐ進むと、旧集落に入り、専念寺の山門にぶち当たる。浄土宗で寛永20年(1643)創建と伝えられている。本尊の阿弥陀如来坐像・大日如来坐像(伝三宝寺)・十一面観音立像は大阪市重要文化財だそうです。特に大日如来は「綿虫勘左」の伝説が伝わっている。【註4】
瑞松寺
 専念寺の山門前を左折、塀沿いに右折して東に進むと、左にお地蔵さんの祠があり、涙池山瑞松寺の山門に出る。東淀川区役所のHP【註5】では山号の涙池山を「るいちさん」としているが、正式には「るちさん」だそうです。山門脇に『石山合戦由緒地碑』が立っている。本寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、開基は楠木治郎左衛門尉正澄で、天正9年(1581)に顕如の弟子となって明道と名を改め、瑞松寺を創建したが、石山合戦で戦死したそうで、昭和10年に建てられ、「明道之碑」「討死三士之碑」と刻まれている。中に入るとたまたま副住職が来られ、お寺のパンフレットを頂いた。


天水溜1

 ここのおすすめは本堂の天水溜の四足です。4人の力士が支えていますが、金剛力士像ではなく、普通のお相撲さんで、非常にかわいいのです。なお、この瑞松寺は昭和の初めまで、「狸の吸出し薬」を売っており、狸を助けたお礼に教えられたとの伝説があります。
 瑞松寺の塀に沿って路地を北上すると、次の角に小さなワラ葺き(トタンでおおわれていますが)の家がありました。電気が付いていましたのでまだ住んでおられるようですが、ワラ葺き屋根は小松では多分ここ1軒だけだと思います。
 ここからまた東に折れるとまたお寺があります。向称寺という浄土真宗大谷派のお寺です。さすが「中島一向衆」の地だけあって、真宗寺院だらけです。ちなみに次の江口の集落では、江口の君堂(日蓮宗)を除いて3寺院がありますが、すべて真宗寺院です。
 旧集落を抜け、区画整理された道に出ますが、そこに松山神社があります。石の鳥居のある区画は公園になっていて、藤棚の藤の花が満開でした。鳥居も灯篭もすべて江戸時代や明治時代のものです。私はまっすぐ神社の境内に入ろうとしますが、T先生が藤棚に吸い寄せられます。つられてYさんもついて行きました。
松山神社全景
 待つこと5分、境内に入る前に、右手の玉垣のところにある新しい小さな灯篭が数点あります。『御大典記念』とありますが裏には平成3年の文字。現上皇陛下の天皇ご即位記念だったのです。
 さて、なんといってもここの目玉は奥の『磐座(いわくら)』です。木立の間から裏のマンションが透けて見えるのが残念ですが、うす暗く、神聖な雰囲気が漂っています。小松の土地の成り立ちを考えると、こんな大石が自然にあったとは考えられないのですが、『磐座』とある以上、有史以前からここにあって、住民からあがめられていたと考えるしかありません。上新庄の春日神社が榊の御神木をあがめたように、このふしぎな大石を神が宿る場所として、あがめたのだと思います。松山神社の詳細は私のブログで (18) 復活のパワースポット 松山神社 http://enotetuhigasiyodogawa.blog.jp/archives/13239308.html
天津磐座
 松山神社を離れ、街道を東に行くと江口商店街となります。今はさみしい通りですが、昭和30、40年代は周りの公営住宅のお客で結構賑わっていたそうで、「江口劇場」という映画館もありました。跡地は北大阪信金になっています。
 ここを抜けると大阪経済大学から西江口橋へ抜ける広い通りに出ます。経大からこの江口街道との交差点までが大大阪時代の都市計画道路で、区画整理の時15m道路として確保されました。今はこの下を地下鉄今里筋線が走っています。
 ここを過ぎると、右手に大きな共同墓地に出ます。北側は江口霊園、南側は大道霊園。中を新幹線が横切っていますが、ちゃんとフェンスで区切られ、別々に管理されています。この墓地は昭和4~8年の区画整理時に周辺の墓地が集められ、昭和34年開通の新幹線建設時にも再整理されています。
 道なりに東へ進み、新幹線を超えると、また旧道になります。左手にあった荒れた農地が最近貸農園に整備され、JAが貸し出しています。
 さらに東に進むとスーパー「ライフ」をはさんで信号のある交差点が2つ。手前が旧の大阪―高槻線、向うが新しい大阪―高槻線で、陸橋の足元に江口の君堂の道標があります。
 ここもまっすぐ越えて先に進むと、小学校の手前に左に進む道があります。これが江口街道で、旧集落に入りますが、我々はまっすぐ先に見えている「江口の君堂」に向かいます。君堂の横は急坂になっていますが、これが江戸時代の旧堤防です。この堤防の上からが君堂の正面入口になります。
 今回はここまで、続きは次回にします。
君堂本堂

【註1】この動画は次回の後編でお見せできそうです。
【註2】春日神社由来
 当社には往時榊の大木があったのを、里人は神木と称して崇敬し、ついに御神木として祀ったのが当社の起源である。後に神木の腐朽するに及び、一社を建立して稲倉魂神(もしくは宇賀魂神)を勧請して榊神社と名づけて祀ったが、天正6年(1578)正月11日奈良の春日神社分霊を勧請したため、春日神社を本社として榊神社を摂社とした。境内神社に天照皇大神社・猿田彦・火加具土神社の末社あり。
尚本社殿は貞享2年(1685)の建立であり今般改修造営す。
明治5年村社に列し、同40年6月神饌幣帛料供進社に指定された。
【註3】上中島区画整理組合
 S4年3月設立、11月工事着手、8年5月工事完了、9年12月換地処分、18年2月解散
【註4】専念寺 東淀川区役所HP
   https://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000473870.html#sennenzi
【註5】涙血山瑞松寺 東淀川区HP
   https://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000473870.html#zuisyouzi