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 現在、東淀川区豊里7丁目、旧三番村にある定專坊という真宗寺院が改修中です。このお寺は淀川の川底に沈むことになって移転して来ましたが、江戸時代の建物を解体して移転してきたそうです。詳しくは「定専坊」のHPを見てください。
 https://www.jyousenbou.or.jp/introduction/about_jyousenbou/
M18年地形図による
 東淀川区豊里は天王寺庄字平田村や三番村が明治30年代の「淀川改良工事」によって淀川の河川用地となり、移転を余儀なくされました【註1】。字野村はかろうじて残りました。三番村の移転先は上記赤丸の所です。明治41年の地形図では下記のようになります。
M41吹田大阪東北部による
 この工事では橋寺村から三番村にかけては、淀川左岸の堤防を利用し右岸とします。そのため橋寺村と平田村の住人は堤防の反対側、つまり以前の堤外地(外島)へ移転しました。それでも各自の村の土地でした。
 しかし、三番村はほとんど残っていませんので、仕方なく天王寺庄の土地に引越しすることになりました。この時、天王寺庄と土地の交換をしています。集落(住宅)としては明治18年地形図にある白い所(田んぼにできない畑地、ということは水はけが良い)に移転しますが、農地も必要です。
明治34年12月24日付、大阪府告示第314号で大字天王寺庄と大字三番の土地の所属の交換が行われたことがわかります。三番村は字平田・字甲・字縄手の一部を獲得します。
三番と天王寺庄の一部交換1

三番写真地図対比3

 上記地図は昭和16年製ですが、『角川日本地名大辞典』(27大阪府H3年)によると豊里三番町は若干の出入りがありますが、ほとんど明治時代の大字三番と変わらないようです。天王寺庄の北東部分をもらったことになります。
 ところで逆に、天王寺庄がもらった「東平田」は実際は新しい淀川の川床になったはずです。土地の所有権は国が買収したはずですので、地番だけが残ったのかもしれません。あるいは旧淀川の河床が陸地になった部分に移ったかもしれません。実際、淀川南岸に残った豊里村の内、ほとんどが豊里町になり、豊里三番町はわずかしかありません。
 明治37年4月25日に設立認可された「天王寺庄外二字普通水利組合」の区域は、
「大字天王寺庄  但字東平田及字外島除ク
 大字三番ノ内字平田字甲及字縄手
 大字橋寺ノ内字牛廻字大道前       」(大阪府告示第71号)となっていて、東平田が除かれています。
豊里南岸地区
【註1】 明治22年に市町村制が施行され、橋寺村・天王寺庄・三番村・菅原村は豊里村となりますが、ここでは、集落単位で〇〇村としています。