2017年江口航空写真2
神崎川樋門完成までの神崎川分水口の歴史
 現在の一津屋樋門は昭和62年の完成で、明治38年完成の神崎川樋門から数えて4代目となります。近代の樋門の歴史を述べる前に、今回はこの神崎川の分水口の歴史を述べます。
 まずは延暦4年(785)の三国川の開削です。教科書でもご存知のように『続日本紀』に「使を遣わして、摂津国神下(みわしも)・梓江(あづさえ)・鯵生野(あじふの)を掘って三国川に通ぜしむ」とあり、東淀川区江口から摂津市別府の安威川までを開削して、淀川と三国川(神崎川)を直結させ、西国への水路を開きます。これによって主要水運ルートは河尻(現尼崎市)―江口―山崎津・淀津となり、難波津は衰微したそうです【註1】。ただし、これで江口が津浜(港湾)として栄えたかは疑問です。
 鎌倉時代になると徐々に難波堀江が勢いを盛り返し、江戸時代には幕府が大坂を商業の中心地と定めたために神崎川の航路はさびれ、ほぼ地場の水運だけになります。そうなりますと、もともと現在の摂津市あたりは洪水の常襲地域でしたので、江口の神崎川分水口を狭めようとの動きが出てきます。
 まず、淀川から分かれた神崎川は北に大きく湾曲しますので、内側の一津屋側(正確には別府村)に寄洲ができやすくなりますので、そこを囲って流作場【註2】を作っていき、「外島」が形成され、さらに「島尻」という流作地も作られていきます。
M18地形図d
 一方幕府は貞享元年(1684)~4年の河村瑞賢の淀川河川工事後は治水優先で川の流れを妨げるものは撤去する方針が取られましたが、河村瑞賢の元禄12年(1699)からの2度目の治水工事では一転して新田開発を積極的に認めるようになります。この方針転換は幕府の財政悪化による増収政策への転換です。大和川の付替えは元禄17年(宝永元年、1704)ですので、これも増収政策の結果だと考えられます。
 神崎川分水口では、まず元禄10年(1697)、 現在の摂津市域の鳥飼組・別府組・三箇牧組など18ヵ村が淀川から神崎川に入る流量の減量(笹刺島造成)を奉行所に訴願します。さらに元禄11年(1698)6月には島上・島下郡村々から神崎川の付替え・直川化の願いが提出されます。これは「自普請」なら認められましたが費用が膨大なので断念されます。
 しかし新田開発政策に呼応して元禄12年(1699)、三箇牧4ヵ村・鳥飼5ヵ村・別府組3ヵ村・島村の計13ヶ村が、再度神崎川分水口に笹刺島造成の申請を出しますと、安威川拡げとともに200間の「笹刺」【註3】が大坂町奉行に認められます。この工事は百姓側の全額負担の「自普請」で行われ、以後の管理も百姓負担なので、この13ヶ村を「笹刺組」【註4】と呼ぶことになります。笹刺島はその後も少しずつ延長され、幕末には下記の図のように流作場にもなっています。一津屋の外島も新田と認められ、宝永元年(1704)には外島堤が「新国役堤」として正式に認められます。

笹刺島
 図にある「神崎川分流上口」は「天見」口と呼ばれ、舟は通れません。「下口」は「駒頭」口と呼ばれ、ここから舟が出入りします。
 明治2年(1869)1月、前年の洪水により破損した笹刺島の修復時に、笹刺組13ヶ村は神崎川分流口の塞ぎ止めを出願しますが、舟運に支障が出ることや下流や対岸の村々の反対で、修復のみになります。この時の普請目論見書が残っています。それによりますと、一津屋村領と三大道村領(江口村は入っていません)で笹刺組と三大道村の施工で、「字笹刺切所」延長174間に対し、杭木1,743本、唐竹204束、空俵6,480俵、筵(むしろ)100枚となっています。
 その後の明治11年に神崎川の直川化工事が実施されますが、明治18年地形図でわかる通り、分水口はほとんど変更ありません。
 この直川化工事は延長2,750m、幅40間(72.5m)で、総工費6万3986円余でほぼ半額が地元68ヶ村の村々の負担で大阪府が施工しました。この地元負担金は重く、延納、滞納(後に分割払い)が相次ぎますが、村々の喜びは大変なもので、沢良宜浜村と鶴野新田では「神崎川変流美功永遠不朽之為」と『水神社』を建立するほどでした。
 次回に続く
M18地形図d

【註1】 鯵生野は現在の摂津市味生付近で間違いないでしょうが、神下・梓江はどこでしょうか?これを書いた文献が見当たりません。私は吹田砂堆(吹田市から東淀川区大道付近の微高地)を横切って、吹田市高浜・東淀川区上新庄あたりまで開削したのではと考えています。 また、『新修大阪市史』第1巻では、この開削によって荷を川船に積み替えず、大阪湾から一気に淀津(京都)まで航行できるようになったとしていますが、これはやや疑問です。大型船は無理だと思います。
【註2】 流作場:川の外島や寄洲など、水害で取高が不安定なため、一定の石高の納入のみが課せられた土地。流作場はたとえ大名・旗本の知行地であっても、後で認められたものは幕府の所領とされる場合が多々あります。
【註3】 笹刺とは淀川流域で行われた制水工法で、杭打ちだけでなく、竹笹を杭に結んで水流を抑えることで砂がたまり、寄洲を作る方法。石材の入手が困難で、土砂の流下の多い淀川流域ならではの工法です。
 2022.3.21 訂正
 竹笹は杭には結んでいないようです。一津屋村・新在家村・別府村の安永2年2月の笹刺島拡張の「笹刺目論見書帳」【註1】では、笹刺島200間に対し、川表側に長さ3間の杭を1列目は1間に10本、2列目は1間に5本、計3千本打ち、川裏側は長さ2間半の杭を1間に7本、計1,400本打つ。笹刺はおよそ600坪で、1坪に50本の葉竹を計3万本打つ計画でした。つまり杭に囲まれた部分に約25cmピッチで葉の付いた竹を打ち込んでいったことになります。

【註4】 笹刺組13ヶ村:唐崎・三島江・西面・柱本村(三箇牧組)、別府・一津屋・新在家村(別府組)、鳥飼上・鳥飼中・鳥飼下・鳥飼八丁・鳥飼西村(鳥飼組)、島村の計13ヶ村