三千橋と中島用水路
用水路本線
 まず現在の風景を見て下さい。中島用水路と府道大阪―高槻線の交点であり、用水路本支線の分岐点です。中島用水路が上新庄からここまで埋め立てられて府道ができたので橋はありませんでした。用水路の水はこの手前から支線の方にだけ流れ、それも埋め立てられると「せせらぎの遊歩道」作られます。
せせらぎの遊歩道
せせらぎの遊歩道2
 「せせらぎの遊歩道」は農業用水の撤去と引き換えの「エクスキューズ」と考えても間違いがないでしょう。ポンプ場廃止決定の際、長年にわたり東淀川区の農業をリードしてきた農協組合長村上英世氏がしみじみと言われた「君達は簡単に三千樋揚水機場の廃止というが・・・・」という言葉が私の脳裏に焼きついている。思いおこすと昭和3年から、いや明治32年から続いた淀川北部三区の農業を支えてきた用水の灯が今消えようとしている思いであったのだろうと筆者は感慨深く述べています。【註1】
橋地図
 さて今回は小冊子『こんなにあった東淀川区の橋』(平成10年、東淀川区役所)からの写真を中心に取り上げます。
大中橋
 ㉒大中橋は昭和41年以降に架けられた橋で、見た通り比較的新しい橋です。中島用水路最上流の橋で奥に淀川の堤防が見え、その手前の平屋の建物がポンプ場と思われます。用水路は下水道化しつつありますが水量はあります。
 大阪市がこの橋の建設年を把握していませんので私設の橋だと思われます。この地図に出ている橋は公設あるいは大阪市が認定した橋だけで、その他未認定の私設橋もありました。認定橋の内、最大のものは「成蹊橋」です。成蹊橋は相川と井高野の間の番田水路に架けられている橋で、昭和41年9月に成蹊学園が井高野側にある第2グラウンドのために架けた人道橋です。
三千橋
 ⑧三千橋は最初の写真にあるようにも片方だけですが欄干が残っていいます。中島用水路跡で橋の面影が残っているのはここだけです。
牛塚橋
 上の写真は前回㉑「牛塚橋」として紹介しましたが、ひとつ上手の「京阪橋」のようです。牛塚橋は大道から小松に抜けるメインの通りで南詰にミリオンマートという市場がありにぎやかな橋でしたし、用水路に対して斜めにかかっていました。
 京阪橋は不思議な橋で、経済大学と小学校に通う学生・生徒以外通らないさみしい橋なのに鉄製の欄干がありました。名前に「京阪」が付くので京阪電鉄が区画整理した土地を売るため、もっと言えば大阪経済大学(当時は昭和高等商業)を誘致するために建設したのではないかと思いますが確証はありません。(これは相川の「新京阪橋」も同じですが)
瑞光寺橋
 ㊱瑞光寺橋は高槻街道支線から瑞光寺への参道に架かる橋でした。この写真は昭和38年頃となっていますが、用水路が埋め立てられていますが、新幹線の工事が始まっていませんから、昭和36・7年だと思われます。この頃は市バスがこの橋を渡って豊里に走っていました。橋向うの広い通りが昭和初めの区画整理でできた道で、後の内環状線となります。なぜか右奥の瑞光寺前の歩道が高くなっています。
菅原橋
 菅原橋は淀川沿いの中島用水路支線に架かる亀岡街道の橋です。完成が昭和6年5月となっていますが、それ以前から架かっていて、後の京阪バスが昭和2年から柴島―唐崎
(高槻市)間の路線を運行していました。この鉄筋コンクリートの橋ができて、大阪市は市バスを走らせたのではないかと思います(9月開始、天六―菅原間)。

国次用水路2
 この写真は『東淀川農協のあゆみ』【註2】から取りました。前回説明した、新太郎松樋から国次排水機場への新水路です。手前の橋は㊿二樋橋、右奥に国次霊園の墓石群、左奥が引江の集落です。二樋橋は中島大水道の新太郎松樋のすぐそばの橋で、新太郎松樋は樋門が2つありましたのでこの名が付けられたと考えられます。

 さて、中島用水路については一旦終り、まとまればまた書くということで、次回は『まぼろしの江口水源地』と題して上水道に移ります。明治40年に柴島水源地が決定しますが、その前年の39年に一旦「江口水源地案」いわゆる「吹田案」が決定していたというお話です。

【註1】『大阪市下水道局20周年記念 業務研究論文集』(平成4年 財団法人大阪市下水道技術協会)内論文『中島大水道と三千樋揚水機場』P601
【註2】『東淀川農協のあゆみ』(昭和39年 大阪市東淀川農業協同組合)