摂津名所図会江口君堂(部分)
 「江口の君堂」の正式名称は「宝林山寂光寺(じゃっこうじ)」という日蓮宗のお寺で、鎌倉時代から続く名刹です。それなのに観光地化されず、江戸時代のままのような落ち着いたたたずまいで、心がいやされます。代々尼僧が住持されているそうで、俗世間と一線を画しているようです。『摂津名所図会』(1798頃刊行)と現在を比べると、歌塚が境内に移動し、鐘楼が隅に移りました。北側(絵の右側)に道路ができて敷地が削られ、池が無くなりそこに鎮守が移動しています。君塚や手水舎はそのままです。
 まず当寺院に掲げられている由緒書を読んでください。原文のままですので読みにくいと思いますが、大体の内容は理解できると思います。また、年代的におかしなところもありますが、気にしないで読んでください。【註:( )内は筆者】

 由  緒
                            大阪市文化財顕彰史蹟指定
 当寺は摂津の国中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号すも、彼の有名な江口の君これを草創せしを以って、一つに江口君堂と称す。
 そもそも江口の君とは、平資盛の息女にして、名を妙の前といい、平家没落の後、乳母なる者の郷里すなわち江口の里に寓せしが、星移り月は経るも、わが身に幸巡り来たらざるを歎き、後遂に往来の船に棹の一ふしを込め、密かに心慰さむ、浅間しき遊女となりぬ。
 人皇第79代六条帝の御宇、仁安2年(1167)長月20日あまりの頃、墨染の衣に網代笠、草から草へ、旅寢の夢を重ねて、数々のすぐれた和歌を、後世に残せし西行法師が浪華の名刹天王寺へ詣でての道すがら、この里を過ぎし時、家は南・北の川にさし挟み、心は旅人の往来の船を想う遊女のありさま、いと哀れ果敢なきものかわと、見たてりし程に、冬を待ち得ぬ夕時雨にゆきくれて、怪しかる賎が伏家に立寄り、時待つ間の仮の宿を乞いしに、主の遊女許す気色見せやらず、されば西行なんとなく、
  世の中を いとふまでこそ かたからめ かりのやどりを おしむ君かな
と詠みおくれば、主の遊女ほほえみて、
  世をいとふ 人としきけば 仮の宿に 心とむなと おもうばかりそ
と返し、遂に一夜を、仏の道のありがたさ、歌をたしなむおもしろさを語り明かしき。
 かくて夜明とともに西行は、淀の川瀬をあとにして、雪月花をともとしる歌の旅路に立出ぬ、出離の縁を結びし遊君妙女は、心移さず、常に成仏を願う固き誓願の心を持ちおれば、後生は必ず救わるべしと深く悟り、後仏門に帰依して、名を光相比丘尼と改め、此の地に庵を結びぬ。又自らの形を俗体に刻み、久障の女身と雖(いえど)も、菩提心をおこし、衆生を慈念したるためしを、見せしめ知らしめ、貴婦賎女乃至(ないし)遊君白拍子の類をも、汎(ひろ)く無上道に入らしむ結縁とし給う。
 かくて元久2 (1205) 年3月14日、西嶺に傾く月とともに、身は普賢菩薩の貌(かたち)を現わし、6牙の白象に乗りて去り給いぬ。御弟子の尼衆、更なり。結縁の男女哀愁の声隣里に聞こゆ。終に遺舎利を葬り、宝塔を建て勤行怠らざりき。
 去る明応の始(1490年代)、赤松丹羽守病篤く、医術手を尽き、既に今はと見えし時、此の霊像を17日信心供養せられければ、菩薩の御誓違わず、夢中に異人来りて赤松氏の頂を撫で給えば、忽(たちま)ち平癒を得たり。
 爰(ここ)に想うに妙の前の妙は、転妙法輪一切妙行の妙なるべし。されば此の君の御名を聞く人も、現世安穏後生善処の楽を極めんこと、疑あるべからず。
 其後元弘延元の乱(1330年代の建武の新政のこと)を得て、堂舎仏閣焦土と化すも、宝塔は恙(つつがな)し、霊像も亦厳然として安置せり。正徳年間(1711~16)普聞比丘尼来りて再建す。即ち現今のものにして、寺域はまさに6百余坪、巡らすに竹木を以ってし、幽𨗉(ゆうすい)閑雅の境内には、君塚、西行塚、歌塚の史蹟を存す。
 然れども、当時に伝わる由緒ある梵鐘は、遠く平安朝の昔より、淀の川瀬を行き交う船に、諸行無常を告げたりし程に、はからざりき、過ぐる大戦に召取られ、爾来鐘なき鐘楼は、十有余年の長きにわたり、風雪に耐えつつも、只管再鋳の日を念願し来りしに、今回郷土史跡を顕彰し、文化財の保持に微力を捧げんとする有志相集い、梵鐘再鋳を発願す。幸い檀信徒はもとより、弘く十方村人達の宗派を超越せる協力と浄財の寄進を得たるを以って、聞声悟導の好縁を結ぶを得たり。(昭和29年9月完成)
  以後建造物の改修について列記す 1.本堂並庫裡大改修  昭和35年
                  1.庫裡屋根瓦葺替   昭和52年
                  1.本堂屋根瓦葺替   昭和56年
                  1.鐘楼堂大改修    昭和57年
                  1.本堂屋根大改修   平成28年
  平成28年10月

 西行と遊女妙の問答自体は『山家集』や『新古今和歌集』に収められていいるので事実だと言われていますが、この歌の解釈は皆さんにお任せして省略します。
君堂本堂
本堂
 正徳年間(1711~16)普門比丘尼が再建されたと言われていますので築300年となり、東淀川区で1・2を争う古建築物です。複層方形造りといわれる二重重ねになった屋根が優雅で印象的です。屋根の軒丸瓦に平家の家紋の揚羽蝶が使われています。
歌塚・常磐津塚
歌塚
 西行と遊女妙の問答歌を刻んだ歌塚で、『摂津名所図会』にあるように、江戸時代には淀川の堤に建立されていましたが、明治30年代の淀川改修で境内に移転されました。日蓮宗独特のひげ文字での「南無妙法蓮華経」のお題目が実に立派で印象的です。日顗(にちぎ?、1681-1753)の書とありますし、『摂津名所図会』が寛政10年(1798)頃の刊行ですので、1700年代中頃の建立と思われます。
君塚・西行塚
西行・妙の供養塚
 『摂津名所図会』では「君塚」と書かれています。江戸時代から動かされていないようです。大きい方が「君塚」です。
江口の鐘
 太平洋戦争での金属供出で一度失われますが、昭和29年に江口の君の八百年法要で再鋳されました。その際、日蓮宗村雲瑞龍寺門跡 村雲日浄尼の筆による次の7俳人の江口の俳句が刻まれました。鐘楼に登れますので、俳句に興味のある方は直にご覧ください。虚子の俳句だけは別格で書かれています。
 くまもなき 月の江口の シテぞこれ    虚子
 菜の花も 減りし江口の 君祭       夜半
 梅雨茸も 小さくて黄に 君の墓      木国
 早乙女の 笠預けゆく 君の堂       青畝
 十三夜 ともす君堂 田を照らし      若沙
 鳥威(おど)し きらりきらりと 君堂に    素十
 冬鵙(もず)や 君の堂へと 水に沿ひ     年尾   【註:( )内筆者】

常磐津塚
 常磐津塚は最初、昭和32年6月18日に千日前の自安寺【註1】に建立されました。しかし、昭和41年5月、大阪市の都市計画に基づく道路拡張のため、自安寺が移転することになり、常磐津塚も立ち退くこととなりました。そして昭和43年に寂光寺に移転されました。同じ日蓮宗で、能の謡曲『江口』や長唄『時雨西行』といった芸能に関係ある寂光寺に白羽の矢が立ったのでしょう。
 平成7年4月4日に少し移動され、現在の位置となります。さらに平成15年4月4日には白御影石製の銘板を納める碑が塚のそばに建立され、常磐津節を支えた先人たちを顕彰しています。
「常磐津塚」の文字は村雲御所瑞龍寺11世門跡の九条日浄尼公(鐘の揮毫者と同じと思います)によって揮毫され、石碑の下には劇作家高谷伸さんによる建立の辞が刻まれています。
建立の辞
常磐津豊後三流の嫡統
京に発し江戸に成る浄瑠璃なり
流行を極め断壓を蒙りし
先人の長を採り短を戒め
被厄以前に優る盛況を呈す
延享以来浪花の義太夫節に対し
東都劇場音楽に冠たり
情を盡し曲を練り弦聲豊かに流風勝る
大正末年七世文字太夫十五世宗家を継ぐに及び
和合宜敷を得屡次見臺を阪地に進め
斯道を擴め慈味深き語調に藝格益々貴し
今その七回忌に際し
師を始め故舊の遺芳を埋め塚を築き業績を偲ぶ
後人徒に蘚苔を涸す事勿礼
昭和三十二年薫風佳日 高谷伸 撰

詳しくは 一般社団法人 関西常磐津協会 HPをご覧ください。
青畝句碑
青畝句碑
本名阿波野青畝(せいほ)(1899―1992)、「ホトトギス派の4S」と呼ばれ、昭和4年句誌「かつらぎ」を創刊、主宰した関西俳壇の重鎮でした。
 刻まれた句は、「流燈の帯の崩れて海に乗る」で、昭和34年8月、君堂で流燈会(お盆の精霊流し)が催された時の句です。背面に「かつらぎ四百号記念、昭和37年11月建」とあります。
手水舎
手水舎(ちょうずや・てみずや)
 『摂津名所図会』では鐘楼の陰になっていますが、はねつるべが書かれています。井戸と手水をためる石槽がセットになって、江戸時代の雰囲気をそのまま残しています。現代はチョロチョロ出てくる水をひしゃくで受けて口と手をすすいでいますが、昔は石槽にためた水をすくっていたのだと気がつきました。

【参考文献】三善貞司(みよしていじ)著 『淀川三区稗史』S53
        〃         編 『大阪史蹟辞典』S61
【註1】自安寺
元々難波千日前にあった日蓮宗のお寺で、現在は道頓堀1丁目東(旧二ツ井戸)にあります。『江戸難波百景』にも出ている名刹で、場所柄花柳界にも近しかったようです。自安寺のHPを参照してください。

補論
 江口と遊女について、浅学ながら私見を書きました。
 一つ目は、江口は淀川と神崎川の分岐点という要衝ですが、港湾機能として「津・浜」にはならなかったようなのです。古書には歓楽地としてしか書かれておらず、現時点では港湾機能のことが書かれたものを見つけることができていません。ところが『摂津市史』で対岸の一津屋をあげ、「津屋」は問丸の別称であり、問丸は流通経済の発展につれて、港湾での専門的な倉庫業・運送業・貨物仲介業を営むようになり、さらに一般流通物資を売買する卸売業者(問屋)成長していくもので、史料的にはないが、「一津屋」がその可能性があるとしています【註2】。なるほどと思うのは、江口は淀川の水流がぶつかる所で、船が停泊しにくく、対岸なら流れが穏やかになると考えられます。事実、信仰と遊山を兼ねた熊野や住吉・四天王寺参詣が流行した院政時代が終わると江口は急速にさびれていきます。
法然上人絵伝
 二つ目は、この時代の遊女の社会的位置です。『新修大阪市史』で遊女を取り上げています【註3】。
 「江口や加島・神崎の遊女は、船泊まりしている舟に小舟を漕ぎ寄せて客を求めた」とされ、『法然上人絵伝』をあげ、「絵巻物にも、鼓をもった遊女が小端舟(こはしぶね)と呼ばれる小舟に乗り、後ろに付き添った女が長柄の大傘を差しかけ、船尾では別の女が櫓を漕いでいる様が描かれている。」とあります。
 「彼女らは、往来する舟に出張して泊り、「少分の贈(おくりもの)を得て、一日の資となす」ような恵まれないものも多かった」が、寵愛され富貴になる者、その子が貴族・武士になる者も少なくなかったようです。貴族はいわばパトロンで、衣装・小物だけでなく小端舟や住居、邸宅(貴族を招き入れることのできる)も贈ったようです。遊女は自前の稼ぎで暮らしていたらしいですが、長者(ボス)が束ねていて、集団で招かられた場合は均等に分けたそうです。遊女たちは江戸時代のような奴隷的な身分ではなく、長者は遊女たちの間で気品・教養・容姿・実績などすべての点で優れた女性が選ばれたらしいのです。つまり支配・被支配といった旧制度の枠からはずれた存在なのです。
 この時代は荘園公領制の確立する時代で、生産力が増し、広域的な商品流通が盛んになりだし、「諸国を渡り歩く中下層の地方役人・僧侶・商人・手工業者や巫・傀儡子」といった民衆が活躍しはじめた時代なので、旧制度の枠からはずれた存在として遊女・白拍子たちは、一方で貴族などの上流階級に接して和歌や朗詠などの古典文化を吸収しながら、民衆の芸能を洗練されたものとして、「今様」をはじめとする新興歌謡を生み出していったのです。
【註2】『摂津市史』(S52年、摂津市役所)P274「問丸と一津屋」
【註3】『新修大阪市史』第2巻(S63年、大阪市)P90~94