西成郡史 長柄橋

 まず最初に、『大阪の橋』『八百八橋物語』の著者、松村博氏が書かれた「六稜同窓会」のHP内「六稜・大阪学講座>大阪の橋」を参照してください。長柄橋の総合的な解説が述べられています。
  
https://www.rikuryo.or.jp/home/column/bridge.html

     初代長柄橋は2種類の構造の橋で造られていた

さて、私のいう初代長柄橋とは明治42(1909)5月完成の長柄橋のことです。最初に掲げた写真は『西成郡史』(大正4年刊)の写真ですが、明治30年代の淀川改良工事で旧中津川が新淀川として大幅に拡張された時に、十三大橋・西成大橋とともに建設された橋です。架け替えられた国有鉄道の鉄橋(中津川橋梁)が転用されました。

私の思考は最近まで、写真の「鉄橋が転用された橋」で止まっていました。しかし、前述の松村博氏の記事の中で、「南側の流水部分には鉄製のポニー型のトラスが架けられていました」と述べられているので、やっと気付きました。この転用された鉄橋だけでは長さが足りないのです。この鉄橋は南側の流水部分だけで、北半分の河川敷部分は十三大橋や西成大橋と同じ構造になっていたのです。

次の写真は長柄起伏堰の写真とその写真の長柄橋中央部の拡大図です。河川敷部分の橋脚や欄干が違っているのがよくわかります。
長柄橋中央部拡大図2

次の写真を見てください。床版は鉄骨の桟(さん)の上に板敷と思われます。荷馬車が通っていますが自動車などの重い車両は渡れそうにありません。明治時代はまだ馬車の時代でした。
ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和大阪(下)長柄橋

次の写真は自動車が渡っています。右に新京阪鉄道(今の阪急電鉄)の鉄橋が写っていますが、大正1410月開通ですので大正末から昭和初めのころの写真と思われます。露店が出て賑わっている様子が写っています。正面の掲示板に何が書いてあるのか興味がわきます。

P113長柄橋2

次の写真は昭和10年頃の写真で新しい橋の建設が始まっています。床版が欄干より出っ張り、橋脚も補強されています。市バスは昭和6年に柴島東口(長柄橋北詰かも?)―菅原町間で始まり、長柄橋を渡って天神橋6丁目まで延長されたのは昭和8年です。

 歩行者・自転車や自転車が引くリヤカーも写っていて、大混雑しているのがよくわかります。

【追加】2022.2.03

『淀川百年史』P1245~6に下記の記述ありました。

「長柄起伏堰は、増水時に転倒させる必要があり、その操作には相当苦心した。《中略》全開に5時間かかった。」「昭和3年6月27日、淀川の急激な増水のため、全部開放しないうちに溢水を始め、右岸高水敷が洗掘され、長柄橋(当時木橋)ママの橋脚2基が倒れ、3径間が落橋という不測の事態を引き起こした」とあり、写真の補強はその復旧工事の結果かもしれません。

長柄橋上の市営バス 大阪市域拡張史

② 豐崎橋と建設時の仮橋

 先述の松村博氏の記述にある通り、明治6年に亀岡街道の旧中津川に豐崎橋が開通しましたが、『西成郡史』第6編の年表(P1109)では最初「長柄橋」と呼んでいたそうです。

九月十七日、北長柄村の長柄橋成れり、之に依り八十歳以上の者通初めをなす。(江口村中野氏文書)因に云う、此橋木造長九拾参間貳尺五寸、幅貳間、後幾許もなくして其名を豐崎橋と改む。」

とあります。次に、同じ年表の明治36年の「洪水暴漲」の項に

 「七月九日、洪水ありて神崎川氾濫し歌島村大字加島の堤防決壊す。《中略》中津川の豐崎橋は九日午前七時と云うに落橋し、通路止れり。《中略》又新淀川中津村國道假橋は悉く沈みければ、此方面の通行も亦止りぬ。」とあります。【註1】

つまり、明治36年7月の洪水で亀岡街道は不通になったことになります。新しい長柄橋が開通する明治42年まではどうしていたのでしょうか?という疑問がわきます。そこで、松村博氏の『八百八橋物語』を見ると、長柄橋について、P112「河川工事にともなって仮の橋が架けられた後、初めての鉄橋が明治42年に完成している。」と述べ、またP167枚方大橋「架橋運動の高まり」の項目で、「明治42年に造られた案では、新淀川開削直後に架換えられた十三・長柄橋の仮橋を転用しようとするものであった。」と書かれています。とすると、長期的に使えるほどの丈夫な橋が仮橋として架けられていたことになります。

 

【註1】別の参考資料 『淀川百年史』P440 建設省近畿地方建設局 (1974)

 「この年の79日、改良工事に着手してから初めて、淀川は洪水に見舞われた。新淀川は前年度海老江区以下の開放を行ったが、薬師堂の旧堤取除きのとき、道路の関係から柴島の旧堤取除きが不能であった。このため長柄橋の前後ではなはだしい水位の差を生じ、柴島旧堤は水制の働きをして流勢は長柄の新堤脚に激突、堤防は危険な状態になった。しかし間もなく長柄橋が墜落したので、もはや旧堤は道路として残す必要もなくなり、これを切断したため、河積は急に広くなり、水位は30㎝余りも急降下し破堤の心配はなくなった。」